cometikiの9割は寺脇康文さんで、できている

私の9割は寺脇康文さんで、できている。…ので自然と思考が寺脇さんにつながっていくのでした。イラスト、日々のあれこれをまとめていきます。

黒船とジョン万次郎と。テレビ『137億年の物語』第71話感想。

寺脇康文さん イラスト 妄想 テレビ『137億年の物語』 2014年9月22日

寺脇康文さん イラスト 妄想 テレビ『137億年の物語』 2014年9月22日

 

テレビ『137億年の物語』第71話感想

今回は19世紀。

日本とアメリカの出会いの物語でした。

黒船来航(来襲?)のペリーや、ジョン万次郎のお話が

登場しました。

 

 

 

寺脇博士(寺脇康文さん)の研究室に、怪しい男(パッ

クンさん)が!!

なにやら、棚に並んでいるものを見たりしています。

 

そこへ大家さん(宮崎美子さん)、それに相内助手(相内

優香さん)が談笑しながらやってきました。

見慣れない男の姿に、怯える大家さんと相内助手!!

 

 

 大家さん「あら嫌だ!あなた、誰?ここで何してる

 の?!」

 

 パックンさん「?」と、振返る

 

 相内助手「大家さん、知り合いですか?」

 

 大家さん「知らないわよ…あなた海外によく行くから

 慣れてるでしょ?話しかけてみて」と、相内助手に

 

 相内助手「いえいえ。ここは度胸があるということで

 大家さん」と、大家さんをパックンさんの前に押出す

 

 大家さん「あ…あの…ユーは何しに、この部屋へ?」

 

 パックンさん「はじめまして。ここは随分面白い歴史

 の資料があるんですね。居心地もいいし。しばらく、

 厄介になろうかな」と、寺脇博士の椅子に座る

 

 大家さん「あーっ!!黒船来襲ー!!外国人が博士の

 椅子を奪おうとしてるんだー!!」

 

 

大家さんが相内助手に”黒船というのは、日本人を脅か

すかもしれない、強敵を表す”意味だと例え話を交えて

熱い説明を始めます。

2人のトークが盛り上がっている所へ、寺脇博士登場。

 

 

 寺脇博士「なんだか賑やかだなぁ…(パックンさんを

 見て)おお!久しぶりー!!」

 

 大家さん「久しぶりって…博士のお知り合い?」

 

 寺脇博士「ええ。パックンはね、池上先輩(池上彰

 ん)の弟子で私の後輩なんだ。とてもユニークな研究

 者なんだけどね」

 

 パックンさん「あ!寺脇博士、これを渡してくれと」

 と、池上先輩からの手紙を差し出す

 

 寺脇博士「おお…池上先輩からか。よし」と、開封

 

 

池上先輩からの手紙には「今日は黒船の話をしましょ

う。ペリーがやってきた当時の興味深い出来事を調べて

くれませんか?最近ますます重要になってきた、日米

関係を上手くやっていくコツが見えてくるかもしれませ

んよ」とありました。

 

 

 寺脇博士「さすが池上先輩!日本とアメリカの未来の

 ことまで考えているんだなぁ…。アメリカからペリー

 がやってきた当時の興味深い出来事か。いや。黒船来

 襲で江戸幕府は大騒動だっただろうなぁ」

 

 大家さん「日本にとっては大事件よね!」

 

 パックンさん「いえ!アメリカにとっても日本との

 出会いは大事件だったんですよ!!」

 

 寺脇博士「よし!今日は日本とアメリカとの出会いに

 ついて考えようじゃありませんか!」と、振返る

 

 パックンさん「(じっ)…」と、至近距離で寺脇博士

 を見つめる

 

 寺脇博士「近いな…出会い頭みたいになってる…」

 

 

戦艦ミズーリ号は1945年9月2日。

日本が連合国軍に対し、降伏文書に調印する際にその

舞台となった戦艦です。

船内に掲げてある、古い星条旗は1853年ペリー提督

が乗っていた黒船にあったものなのだとか。

 

その星条旗の星の数は当時のアメリカの州と同じ31個

で作られています。

 

 

ペリー提督はアメリカ海軍東インド艦隊の司令長官で

した。

1853年4隻の黒船で神奈川県の浦賀に来航し、翌

1854年に日米和親条約を結び、200年以上続いた

鎖国を終わらせたのです。

 

 

現在でも浦賀にはペリーの名前を見つけることができ

ます。

ペリー通り、ぺりー公園、ペリーが来航した記念の巨大

な石碑など。

 

石碑の文字は初代内閣総理大臣伊藤博文

太平洋戦争中は敵国をたたえるものとして引き倒された

こともあるそうです。

しかし、1945年11月、修復され立て直されました。

この石碑は、日米の関係を象徴するような存在のよう

です。

 

石碑の傍にある、ペリー上陸資料館。

入口にはペリーの像が置かれています。

 

ペリーは4隻の中の、サスケハナ号という船に乗ってい

ました。乗組員300人の大型船です。

カッターという小舟に移って、オールで漕いで上陸しま

した。

 

当時のペリーのイメージは「怖くて、クマのように大

きくて獰猛というイメージ」だったそうです。

資料館に残っている、ペリーが娘イザベルに宛た手紙

からは、とてもよい父親といった感じが伝わってきま

した。

 

けれど、江戸幕府にとっては脅威の存在だったのです。

 

 

 寺脇博士「1853年。浦賀にやってきたペリー艦隊

 は一体どこからやってきたでしょうか?」

 

 大家さん「それはアメリカだから、太平洋を渡って

 きたのよ」

 

 寺脇博士「と、思うでしょう?ところが…ものすごい

 大航海をしてきたんです。相内クン!」

 

 相内助手「アメリカの東側を出て、アフリカ大陸の南端

 を越えて、インド洋を出て、香港、上海にも寄って、

 琉球にも顔を見せて、およそ8ケ月かけて日本の浦賀

 到着しました」

 

 寺脇博士「さて。ここで問題です。ペリーはなんのため

 に日本に開国を迫ったのでしょう?」

 

 大家さん「黒船の10年程前にイギリスが中国にアヘン

 戦争で勝って、香港を取り上げたでしょう?だからアメ

 リカはそれを真似して、日本からなにかを奪い取りたか

 った!」

 

 寺脇博士「さすが!いい線ついてますねー!日本もそれ

 を恐れていたと思いますよ?アメリカはまずはこんなこ

 とを言ってきました」

 

 相内助手「石炭、食糧の供給をお願いします。それから

 貿易もやりましょう」

 

 寺脇博士「最初のうち、幕府は”アメリカと貿易なんか

 しないよー”と断りましたが、しかし!おみやげが…」

 

 大家さん「おみやげ?」

 

 相内助手「アメリカ側からのおみやげは、蒸気機関車

 模型など珍しいものばかりでした。機関車は実物の4分

 の1程の大きさで、横浜の麦畑を時速32キロのスピー

 ドで、シュッシュと走らせたそうなんです」

 

 大家さん「高価なものを無料でいただいた後に、必ず

 くるのが”今度は買ってください”と」

 

 寺脇博士「そのとおり!この頃、アメリカでは産業革命

 が発達してアジアの国々に様々な商品を買ってもらいた

 かったんです。そして、もう1つ開国を迫る理由があっ

 たんです。コレです!!」

 

 大家さん「捕鯨船?」

 

 寺脇博士「この頃、明かりに使う灯油はクジラからとっ

 ていたんですね」

 

 相内助手「アメリカは捕鯨船が燃料や食料を補給する

 港が欲しかったんです

 

 大家さん「そういえば、アメリカの捕鯨船に助けられた

 日本人がいたわよね…名前は、ジョン万次郎!」

 

 寺脇博士「そうです!ジョン万次郎。この人物もまた

 日本とアメリカの間で大きな役割を果たしたその人

 なんです」

 

寺脇康文さん イラスト 妄想 ちび博士3 2014年9月19日

寺脇康文さん イラスト 妄想 ちび博士3 2014年9月19日

 

 

ジョン万次郎は、高知県土佐の出身。

ペリー来航の12年前。14歳のとき漁に出て、無人島の

鳥島に打ち上げられました。

 

およそ5カ月後、通りかかったアメリカの捕鯨船

ジョン・ハウランド号に救助されたのです。

その船の船長ホイットフィールドと共にアメリカへ

渡りました。

 

万次郎が辿り着いたのは、アメリ東海岸のボストン。

ボストン郊外にある、ホイットフィールド船長の家で

彼の養子となり、16歳からおよそ8年間過ごしました。

 

万次郎は好奇心が強く、頭のよい青年でした。

そのため船長は彼を学校へ行かせたのです。

彼は近くの高校へ入り、数学や測量、航海術などを学び

ました。

 

万次郎は耳で聞いた英語を書き残し、辞書にしました。

その辞書は、後に日本中に出回ったといいます。

 

そして24歳のとき、意を決して日本へ帰るのです。

 

 

 

 寺脇博士「日本人として初めてアメリカで暮らした

 ジョン万次郎ですが、ようやく帰国したものの、そこ

 からがまた苦難の連続でした」

 

 相内助手「彼はまず琉球、今の沖縄県に上陸します。

 厳しい尋問の後、本土へ送られ長崎の奉行所などで

 およそ1年間に渡って尋問され続けるんです」

 

 大家さん「海外と関わりを持っただけで死刑にされた

 時代ですものね。そりゃあ厳しく取調べられたんでし

 ょうね」

 

 寺脇博士「まあ、万次郎が日本語を殆ど忘れてしまって

 いたので、中々話が通じなくて時間がかかったとも

 言われています」

 

 相内助手「1852年。万次郎はおよそ12年ぶりに

 故郷の土佐へ戻ってきました」

 

 大家さん「時間はかかったけど、死刑にはならずに

 すんだのね」

 

 寺脇博士「それどころか、西洋の情報を持っている人物

 ということで、武士としてとりたてられ異例の出世を

 果たすのです」

 

 相内助手「そして、苗字・帯刀を許され、出身地の中浜

 をとって”中浜万次郎”と名乗るようになりました」

 

 大家さん「元漁師が武士に…まさに幕末のアメリカン

 ドリームじゃない!」

 

 相内助手「万次郎は翻訳、通訳、造船技術などを教える

 など、精力的に働きました。その中で…」

 

 大家さん「あ!坂本龍馬!そしてこちらは、岩崎弥太郎

 三菱財閥創始者ね」

 

 寺脇博士「そう。万次郎はこうした新しい時代を作る

 人たちに大きな影響を与えたんです。そして万次郎は

 幕府がアメリカに派遣した使節団に、通訳として同行

 しました」

 

 相内助手「乗り込んだのは使節団の護衛艦・咸臨丸です」

 

 大家さん「咸臨丸って、あの勝海舟が船長だった船で

 しょう?万次郎も乗ってたんだ」

 

 寺脇博士「当時アメリカ人とまともに会話できる日本人

 は万次郎しかいなかったので、大いに活躍したと言われ

 ています。それから、ミシンや写真機など文明的な品物

 を数多く持ち帰りました。これが後の日本の近代化の

 大きな刺激となったのです」

 

 大家さん「万次郎がいなかったら、日本とアメリカの

 関係はもっと違ってたかもしれないわね。文字通り、

 日本とアメリカの架け橋となったのね」

 

 寺脇博士「万次郎は身分の低い漁師でした。でも、

 アメリカに渡ったおかげで、高い教育を受けることが

 できた。だからアメリカに対して、とても感謝してい

 ました。日本とアメリカを仲良くさせること、それが

 彼の夢だったんです」

 

寺脇康文さん イラスト 妄想 ちび博士 2014年9月19日

寺脇康文さん イラスト 妄想 ちび博士 2014年9月19日

 

 

本日の雑談コーナーでは、パックンさんを交えて、

寺脇博士と大家さん、相内助手の4人で談笑されて

いました。

今回は寺脇博士、聞き役といった雰囲気です。

 

 大家さん「日本人は皆、ペリーさんて知ってると思うの。

 どうなんですか?アメリカの中では?有名なんですか?」

 

 パックンさん「有名です!マッカーサーとペリーは、

 日本人にとって物凄い大きな存在ですけど、オープニン

 グ・オブ・ジャパンと言って、日本を開いた存在です」

 

 相内助手「偉大なことを成し遂げた人々」

 

 パックンさん「もう、すごい功績です」

 

 

 

寺脇博士のつぶやきコーナーでは、ジョン万次郎の

名前について語ってくださいました。

最近お馴染になってきたダジャレも、しっかり聞くこと

ができました∑d(≧▽≦*)

 

 

 寺脇博士「ジョン万次郎。今では初めてアメリカに

 渡った日本人の名前として有名だが当時は、ジョン

 万次郎とは呼ばれていなかった。実は昭和になって

 から直木賞を受賞した井伏鱒二の小説『ジョン万次郎

 漂流記』で初めて使われた名前なのだ。

 

 ちなみにジョン万次郎のジョンは、彼を救った捕鯨船

 ジョン・ハウランド号からつけられたと言われている。

 

 ジョン万次郎…その人生だけでなく、名前も波乱に満ち

 ていたんだなぁ。

 外国のことを知りたい人が押し掛けたんだろうなぁ。

 ”ああ、わかった。順番にしろー…じょんばんにしろー

 …ジョンマンジロー”ってね」と、満足気♪

 

 

この、ダジャレを言い終わった後の、言い切った感な

寺脇博士の表情がツボです(*ノ∀`*)

可愛いんだもんなー!!

 

 

あと、初登場のパックンさんとの掛け合いも楽しく

見させていただきました。

寺脇博士の後輩まで登場とはっΣ(゚Д゚ノ)ノ

いい意味で驚かされております。

 

嬉しいなぁ!こういう驚きは!!

次回も期待しております!!

 

※感想内の台詞や諸々のことにつきましては、

 私の脳内加工済みのものとして、まるっと

 本気になさいませんよう、ご注意ください。

 

 

 

 

ネットの片隅で、こっそりと。

今日も熱烈に叫んでおります!!

寺脇康文さん、大好きです!!

 

多分、明日も寺脇さん萌ポイントなど語っております。

よろしかったら、またお越しくださいませ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

cometiki@寺脇さんを描く人